球場跡地と麺① -平和台球場-
友人と話している際、球場跡地の土地利用についての話題になりました。今から半世紀ほど前の日本には、今よりも多くのプロ野球球団があり、本拠地球場も今とは違う場所にいくつも存在していました。そのうち球団は合併、消滅を繰り返し、使われなくなった本拠地球場は取り壊されることとなりましたが、球場のその後について考えたことはあまりなかったことに気づきました。
スマホのカメラロールを見てみると、かつて野球場があった場所に足を運んでいたことがありました。勉強の気分転換に、少し球場跡地について見てみたいと思います。ついでに近くの麺屋も紹介します。
1.平和台球場 -西鉄ライオンズ、福岡ダイエーホークス-
福岡県福岡市、舞鶴公園の一角にあった野球場が「平和台球場」。福岡城のすぐ脇にあった、日本でも珍しい球場です。
西鉄ライオンズ(現:埼玉西武ライオンズ)が本拠地として使用していた1954年から始まった西鉄の黄金期を始め、観客が選手に襲いかかる大乱闘となった「平和台事件」の舞台となるなど、球界の歴史の舞台となった球場でした。球団名が西鉄からクラウンライターライオンズとなり、1979年に「西武ライオンズ」となって埼玉へ移転した後しばらくは本拠地とする球団はありませんでしたが、1988年の南海ホークス身売りによって誕生した福岡ダイエーホークスの本拠地に1989年からなり、1993年の福岡ドーム(現:福岡PayPayドーム)完成まで使用されました。
2018年8月、ソフトバンク-ロッテ2連戦を観に福岡へ行ったついでに平和台球場跡を訪問していました。球界の歴史の舞台となった球場の跡地はどのように変わったのでしょうか。
平和台球場跡は、芝生の広場となっていました。一段高い福岡城から降りた先、城内と城外の境のような場所に、広々とした広場が広がっています。しかし、その広場の形は球場の形そのままで、ところどころに球場時代の名残がありました。
外周にはフェンスが建てられ、広場の南外側の通路は少し低くなっているなど、かつてここに野球場があったことをうっすらと感じさせるものになっていました。
西鉄黄金期は福岡の人にとっても歴史的なことで、ライオンズが埼玉に移転した現在でも、歴史の1ページとして語り継がれています。球場跡にはところどころに下のようなパネルがあり、西鉄ライオンズの栄光を語り継いでいます。
ちなみに平和台球場の下にはかつて「鴻臚館」という古代の外交施設があり、平和台球場閉鎖後に発掘調査が行われました。
球場の外側には鴻臚館に関する博物館があり、広場内にもかつて鴻臚館があったとされる場所に線が引かれており、球場跡は史跡としても活用されています。一応日本史用語集にも載っていたので、早慶を受験する人は「鴻臚館」という名前を覚えておいてもいいかもしれませんね。
平和台球場は、その立地していた場所の特殊性から、跡地を広場、史跡として活用していました。このような球場跡の例は他にないと思われます。というか城内に球場がある例は他にないでしょう…
この日は平和台球場を後にした後、そのまま元祖長浜屋で昼食を取りました。
長浜ラーメンの老舗で替え玉発祥とも言われています。歴史を感じた後は歴史を感じる一杯を。
卓上のゴマ、紅ショウガはお好みで、ラーメンタレは替え玉時に。コールは「ベタナマ」。ルールは事前に予習してから行きましょう。
球場跡の訪問ってあまりしていないのですが、今年はほとんど外出できていないので、いろいろ落ち着いたタイミングで球場跡をめぐる一人旅とかしても面白いかもです。
その辺は試験が終わってから考えることにしましょう。勉強に戻ります。