東京で巡る球場跡は残り3ヶ所だと思っていましたが、調べてみるとまだまだありそうでした。地方に行くことが憚られる今、空いた時間でできるだけ行ってみたいと思います。
7. 東京スタディアム(武蔵野グリーンパーク野球場)-国鉄スワローズ?-
1950年代、プロ野球は後楽園球場における試合の過密日程に悩まされていたことは過去の記事でも述べたとおりです。
その過密日程の解消策として駒沢野球場、東京球場が建設され、東映、大毎がそれぞれ本拠地を後楽園から移しましたが、それらの球場に先立って郊外に建設された球場がありました。それが「東京スタディアム」、通称武蔵野グリーンパーク野球場です。
この球場の正式名称は「東京スタディアム」とされていますが、光の球場と謳われた東京球場(東京スタジアム)との混同を避けるためか、「武蔵野グリーンパーク」の愛称でよく知られています。
国鉄中央線の三鷹駅の北、戦時中までは中島飛行機武蔵製作所があった土地は、空襲によって壊滅的な被害を受けていました。
その跡地に目を付けたプロ野球。後楽園球場の過密日程解消のため、1951年に武蔵野グリーンパーク野球場が開場しました。
初めて行われた試合は東京六大学野球春のリーグ戦。神宮が接収されていたため、この球場と上井草などを併用してリーグ戦が開催されました。
この球場で行われた最初のプロ野球の試合は5月5日の国鉄スワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)対名古屋ドラゴンズ(現:中日ドラゴンズ)。
この試合は6-3で国鉄が勝利しました。
短い工期で作られた球場であったものの、球場設備は充実したものが目指されていました。
収容人数は5万人以上、両翼91.5m、センター128m(現在最も広いMAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島の左翼101m、右翼100m、センター122m)と大規模であり、一日に複数試合を行うことを想定しロッカールームは広く作られ、場内にはビアホールも建設されるなど、本格的な球場として建設されました。
更にもともと中島飛行機武蔵製作所にあった国鉄からの引き込み線を活用し、先述の六大学野球の開催に合わせた1951年4月14日に「武蔵野競技場線」(正式には中央本線の支線)が開業。試合開催日には東京駅からの直通列車が運行され、不便だったアクセスも改良されました。
また、将来的には宿舎や練習場も併設される計画だったようで、完成していれば日本初のボールパークとなっていた可能性もありました。
―はい、「完成していれば」。
この球場は武蔵野台地上に立地、グラウンドは保水力の低い土であったため、風が吹けば砂埃が舞うような状況。
工期が短いこともあり開場時点では外野の芝も十分に生えていない状態で試合が行われ、内外野共に砂埃の中プレーすることに。観に来た観客もプレーする選手からしても好ましくないコンディションでした。
また、国鉄が直通列車を運行していたものの、都心の神宮や後楽園に比べて武蔵野という遠い場所に球場が位置していたことから、選手や観客は通いづらいという印象を持っていました。
更に開場翌年の1952年に神宮球場の接収が解除、川崎球場の利用開始も同年であり、1953年には駒沢野球場が開場、後楽園の過密日程問題は解消に向かっていきました。
フランチャイズ制の導入に伴い、鉄道路線を持っている国鉄スワローズが本拠地にするという可能性もありましたが、このような悪条件の球場ということもあり結局本拠地として使われることはありませんでした。
武蔵野グリーンパーク野球場は、1952年シーズンからは一試合も行われず閉鎖、1956年に球場は解体されました。
同球場へのアクセス路線、武蔵野競技場線も1952年に休止、1959年に廃線。
ボールパーク化もありえた武蔵野の大球場は、実働1年という、日本で最も短命に終わった球場となってしまいました。
そんな武蔵野グリーンパーク野球場の跡地、元々飛行機工場であったこともありかなり広い土地が残りましたが、現在はどうなっているのでしょうか。
球場解体後、跡地は日本住宅公団に売却され、「武蔵野緑町団地」(現在は「武蔵野緑町パークタウン」)が建設されました。
住所は「武蔵野市緑町」。この名前の由来は、進駐軍が中島飛行機武蔵製作所を摂取した際に接収した際に命名された「グリーンパーク」が元となっています。球場名もここからとられています。
団地の周辺には保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校があり、周りを歩いてみるとあちらこちらで子供が元気に遊んでいました。
開発が1957年と半世紀以上前であり、三鷹駅からも徒歩25分と距離がありますが、学校等の周辺施設の充実やバス路線があることから、今でも多くの家族世帯が居住していると考えられます。
地図を見るとわかる通り、団地の中心近くの道路は丸くなっており、球場跡であることを示しています。
中央の芝生広場の一角に、かつて球場があったことを示す説明書がありますが、それ以外に球場の名残は見られません。
日本で一番短命に終わった球場は、今は子供の声が響く団地へと変わっていました。
せっかくなので、「武蔵野競技場線」の廃線跡も歩いてみることにしました。
かつての終着駅「武蔵野競技場前」は、団地の南、現在は分譲マンションが建っているところにありました。
地図で位置関係を見てみると、このマンションが駅の跡地に建てられたことがよくわかります。
武蔵野中央公園に向けて歩いていくと、遊歩道の入り口が見つかりました。
遊歩道の名前は「グリーンパーク緑地」。間違いなく廃線跡です。
武蔵野競技場線の跡地の大部分は遊歩道として整備され、ところどころに鉄道時代の説明書きや痕跡が見られます。
しばらく歩くと、広めの道に合流。新武蔵境通りです。
右手には境浄水場があり、かつてはここにも国鉄の引き込み線があったと、フィールドワークで訪れた際に教わりました。
その先、線路は玉川上水を渡ります。上水に架けられたこの「ぎんなん橋」には、線路のモニュメントが。
かつて鉄道が走っていたことをモニュメントで示しています。
また、この「ぎんなん橋」の橋台は、引き込み線時代からの遺構となっています。
戦前から残る、この廃線跡で最も大きな遺構です。
玉川上水を渡ると、武蔵野市から三鷹市に入り、遊歩道も「堀合遊歩道」と名前を変えます。
新武蔵境通りと分かれ、三鷹駅に向かって大きく東にカーブしていきます。
しばらく歩くと堀合児童公園という広場にぶつかり、その先に中央線の線路、シャッターで仕切られた入り口が見えます。
おそらくここが中央線との分岐地点。上り列車はここから中央線の線路に入り三鷹駅に入っていったと考えられます。
そうして三鷹駅に到着。全部で1時間ほどの行程でした。歩くだけでもいろんな発見があり、面白かったです。
球場・廃線跡に思いを馳せながら散歩をするのもいいものですね。
三鷹は名店揃いのラーメン激戦区。グリーンパークに行く前に、腹ごしらえとして三鷹を代表する麺屋に行ってきました。
「麺屋 さくら井」。「麺処ほん田」出身の店主により2016年に開業した、今では全国的に有名な名店です。
ラーメンの見た目は非常にシンプル。そして味もとてもシンプル。だがとても旨い。
スープは名古屋コーチンのガラ、大山鶏の丸鶏、本枯節や真昆布を用い、水にはπウォーターを使用。出汁のUmamiをしっかりと感じられるスッキリとした味わいです。
カエシには厳選された6周囲の醤油をブレンド。温度にも注意を払い、スープの芳醇な鶏の香りとマッチするバランスの取れた味わいを醸し出しています。
パツりとした細麺、とても柔らかくジューシーなチャーシュー、香ばしい海苔、柔らかな味わいのメンマ。どれも最高に美味しいです。
卓上に記されていた言葉
「インパクトのある味よりも、毎日飽きずに食べられるらぁ麺を目指して日々精進していきます。」
その通り、強烈なインパクトはないものの、すべての要素が高いレベルでバランスよく作られている、毎日食べたいラーメン、というイメージがピッタリ当てはまりました。
三鷹に来たら必食の一杯です。
さくら井を出ると、もう一店ギリギリ間に合いそうな時間。急いで連食に向かいます。
「くじら食堂bazar 三鷹店」。東小金井にある「くじら食堂」の2号店で。岡山県の「笠岡ラーメン」を提供するお店です。
笠岡ラーメンの特徴は、鶏ベースの醤油ラーメン、細麺、そして鶏の「かしわ」を乗せること。元々笠岡氏は養鶏が盛んで、安く大量に手に入るかしわをトッピングするようになったとされています。
スープは鶏の香りを感じ、醤油がしっかりと存在感を示す「中華そば」感溢れる味わい。
加水高めな麺は三河屋製麺製で、茹でる前に手揉みされます。そのおかげでスープが細麺によく絡み美味い。
肝心のかしわはかため。コリコリとした食感は空腹時には癖になりそう。デフォで結構量があるので満足感も高めです。
個人的にツボだったのは、特製に入る「本格吊るし焼豚」。燻製チャーシューが好きな私大歓喜の味わい。肉のUmamiはもちろん、香ばしい燻製の風味とタレの味が最高に美味。柔らかさも文句なし。これだけでも食べちゃいたいくらいでした。
初めての笠岡ラーメンでしたが、予想以上にボリューミーで最後はかなりペースダウンしてしまいました。それでもおいしく完食。大満足の一杯でした。
都内で笠岡ラーメンを味わえる数少ないお店。是非訪問を。
三鷹訪問日は2/22「猫の日」。遊歩道でたまたま出会った野良猫。
生まれ変わったら猫を抱きしめることができる人間になりたい。